河野談話は生きているが慰安婦問題は死んだ

問題点をすり替えた、噛み合わない議論が続いているので、はっきりさせておく。「強制」の規模について、だ。慰安婦の規模ではない。日本軍が組織的に慰安婦を狩り集めた事実は無い。軍の中に慰安婦徴集隊を組織して村々を周り、適正年齢の婦女子を集めて一列に並べ「お前とお前は連れて行く、お前は、、、ダメだ」といった行為、その結果として20万人の慰安婦という事実はなかった。(う~ん北斗の拳の世界だ)

もし、組織的な活動があれば、軍は必ずこれを記録し残す。焼いて証拠を隠滅したから残っていない、などという人は軍隊というものを勘違いしている。

もう一つ、軍は、こういう汚い仕事を自分の手ではやらない。昔も今も変わらず下請けに出す。軍隊という大木の周りには、甘い汁を吸う虫が一杯寄ってくるのだ。

だから日本軍は慰安婦問題と無関係だとか、強制性はなかっただとか、あれは高級売春婦だと言い募るのは、これまた軍というものを、戦争というものを知らない者の妄言だ。汚い仕事の裏には軍の意向が、支援が、在ったと考えるべきだ。そのなかで軍が直接表に出てくることも多々あったろう。

騙されて、売られて、慰安所に連れてこられた多くの少女たちに選択の自由があったなどと思ってはならない。死を選ぶ自由すら無かったと考えるべきだ。

そして、河野談話は生まれた。彼女たちの傷を僅かなりと癒すべく、日本政府として公式に謝罪したのだ。その過程で当事者たる韓国政府と綿密に摺合せを行い、相互に受け入れたことは最近の検証作業により明らかになっている。

河野談話は生きている。その精神と共に。安倍政権もその継承を明言していることから、広義の強制性を受け入れている訳だ。

ところが、朝日新聞の火付けによって燃え上がった「慰安婦問題」は、どうひねくれたか、日本軍が20万人の慰安婦を組織的に駆り集め性奴隷としたことを認め、ホロコーストと同じように人道に対する罪として謝罪せよ、という話になっている。

慰安婦問題から目を背ける者ではないが、これは、事実と異なるし、慰安婦問題の本質でもない。これは、あきらかな韓国からの外交的挑戦であり、問題をすり替えたうえで、過去の日本(と彼ら自身)の努力に唾を吐きかける行為だ。

我々は、はっきりと認識すべきだ。現在の「慰安婦問題」は韓国(と中国)の外交的挑戦であり、彼ら自身が、慰安婦を武器として「活用」しているという事実を。

戦争の傷を癒し、未来へ向けて関係を発展させていこう、と一度は手を取り合ったはずだ。それが「条約」として形になっている。条約締結当時、双方、内容に不満はあったろうが、これもまた、一面の外交戦争として決着したのだ。したがって、すべてはここから始まる。その後の日本の活動は、すべてこの条約からスタートしている。

隣国は知らず、日本は法治国家だ。法を超えて何かをすることは出来ない。法治は戦争の反省として定着した戦後枠組みの大きな柱だ。「民主主義」を支える柱。だからこそ、韓国の慰安婦を道具とした外交的挑戦に対して、日本は苦心惨憺しながら「河野談話」と「基金」という解決策を提示した。謝罪と賠償。これ以上何を望むのか。

慰安婦を今また、戦争の道後として引っ張り出し、過去の外交戦争の敗北の責任を自身に問うことなく、世界中に日本を貶める言質をばらまく。誰が慰安婦をもっとも貶めているか、韓国政府はよく考えるべきだ。こういうのを日本語では「恥知らず」という。

慰安婦問題の本質から目を逸らしてはいけない、と朝日新聞は書いたが、目を逸らさず見つめると、こうなる。

河野談話は生きているが、慰安婦問題は死んだ。